アフリカ睡眠病に挑む
医師の希望の飲み薬
新たなアフリカ睡眠病治療薬の
開発に携わった人々

コンゴ民主共和国の医師たちは数十年にわたり、村落で暮らすアフリカ睡眠病患者の治療を改善することを夢見てきました。

フェキシニダゾールがアフリカ睡眠病の
初期・後期双方を対象とした
初の経口薬として承認されました。
フェキシニダゾールの開発に貢献した
医師と患者、科学者の物語を紹介します。

アレクシス・ムクウェディは、ルワノ村の大きな木陰にある木の椅子に腰かけていました。その目は真っ赤に充血し、恐怖に満ちていました。前の日に、顕微鏡や発電機、診断装置などの資材を持ち運び、巡回診療を行う医師のチームが、コンゴ民主共和国(DRC)バンドゥンドゥ州の深い茂みをかきわけ、この人里離れた村を訪れていました。
早朝、さまざまな血液検査を受けたのち、彼はこの国では恐怖の代名詞として知られる致命的な病気、アフリカ睡眠病(ヒト・アフリカ・トリパノソーマ症)と診断されました。若い父親であり、漁師である彼は、ここしばらく体の不調を感じていました。熱っぽく、昼間には眠り、夜には目覚め、神経性のチックに悩まされていたのです。
アレクシスを診察するカンデ医師
アレクシスを診察するカンデ医師
アレクシスの後ろでは、年配の医師が慣れた手つきで腫れたリンパ節を診察していました。アフリカ睡眠病をはっきりと示す症状を探していました。しばらくして、この病気の診察を熟練している医師は、ゆっくりと頷きながらその場を離れました。そして、年配の医師、ヴィクトル・カンデは「アフリカ睡眠病です」と告げたのです。
実際に、カンデ医師はこの検査をこれまで数え切れないほど行ってきました。彼はコンゴ民主共和国の人里離れた赤道地域で町医者を勤めていた時代から、国内のアフリカ睡眠病プログラムの責任者を勤めるに至る長いキャリアのなかで、何千人ものアフリカ睡眠病患者の治療にあたってきました。そして現在は、フェキシニダゾールとして知られる薬剤を対象とした臨床試験の責任医師を務めています。フェキシニダゾールは飲み薬で、10日間錠剤を服用することで治療ができます。これこそが、カンデ医師が数十年にわたり夢見てきた治療薬なのです。
クウィル川を渡り、バガタ病院に向かうカンデ医師
クウィル川を渡り、バガタ病院に向かうカンデ医師
巡回医療チームを派遣したのは、同臨床試験の実施施設のひとつである近隣のバガタ病院でした。医師たちは、アレクシスが血液検査に陽性反応を示したことを受け、臨床試験への登録を希望するか尋ねました。アレクシスは同意しました。
「彼は怯えているのです」とカンデ医師が語ったのは、医療従事者たちがアレクシスをバガタに搬送する準備を整えていた時のことでした。「人々はこの病気を怖れ、治療に対しても恐怖を感じているのです。」
なぜでしょう。それは何十年もの間、アフリカ睡眠病に対して有効な唯一の治療薬はヒ素を主成分とするものであり、それにより20人に1人の患者の命が奪われていたからです。以前より安全性の高い新たな治療薬は登場してはいるものの、長期間の入院と複数回の注射を必要とします。
しかし、アレクシスには、臨床試験の一環として、この病気の治療方法を一変させると期待されていた治療薬フェキシニダゾールが投与されることになります。注: フェキシニダゾールは2018年11月に承認され、2018年12月にコンゴ民主共和国で登録されました。(英語)
~カンデ医師の夢が実現するまでの物語~
フェキシニダゾールは、多様な経歴を持つ何百人もの人々の努力の結晶です。そのなかには、アフリカにおける同治療薬の臨床試験を主導した非営利研究開発組織「顧みられない病気の新薬開発イニシアティブ」(DNDi)に所属する科学者たちも含まれています。またDNDiと連携し、同薬を開発した製薬会社サノフィの研究者たちも関わっていました。そしてなんといっても、コンゴ民主共和国の最前線で活動する医師たち、臨床試験への参加に同意した患者たちがいなければ、決してフェキシニダゾールの開発に成功することはなかったでしょう。
物語の発端は「ツェツェバエ」にまで遡ります。ツェツェバエは、アフリカ睡眠病の症例の約80%が確認されているコンゴ民主共和国に点在する川や湖、湿地の近くに生息し、人や動物を刺すことがある昆虫です。
そのため、この物語は川岸から始まるのです。

現在、サハラ以南のアフリカの人里離れた地域では、約6,500万人がアフリカ睡眠病のリスクにさらされています。ツェツェバエに血を吸われ、アフリカ睡眠病を引き起こす寄生虫に感染した人々は、発熱や悪寒など、マラリアと誤診されることも多い症状が見られます。
寄生虫が中枢神経系に侵入すると、患者はアフリカ睡眠病の致命的なステージである後期(第2期)に入ります。後期に入った患者は、攻撃性や精神障害、睡眠パターンの乱れによる消耗など、怖ろしい神経精神症状に苦しむことになります。そして治療を受けなければ、ほとんどの患者が帰らぬ人となってしまいます。
コンゴ民主共和国の歴史は、アフリカ睡眠病とその症状に関する生々しい記録であふれています。植民地時代の記録には、ツェツェバエが原因で地域全体が無人になったという記述が残っています。アフリカ睡眠病は、大切な人々のありさまを劇的に変化させてしまうため、現地の村の伝説では、呪術や黒魔術の仕業であると語られています。
初期のアフリカ文明においても、アフリカ睡眠病が発生した記録が残っています。しかし、初めて大規模な流行が生じたのは19世紀末のことでした。そして、その原因となったのは、植民地主義がもたらした急激な変化だったのです。1890年代には、ベルギー領コンゴで発生した1回の流行によって最大50万人が死亡したとされており、またイギリス統治時代のウガンダでも20万人がアフリカ睡眠病で死亡しています。
その対応として、最も深刻な被害を受けた国々の植民地当局は、アフリカ睡眠病の根絶に向けた長期的なキャンペーンを打ち出しました。欧州の研究者たちはコンゴ各地を駆けめぐり、フランスの「巡回診療チーム」はカメルーンの密林の奥深くまで足を踏み入れ、症例を検出し、治療する「ジャモ法」の先駆けとなりました。
この方法により、1960年代までに症例数を年間5,000例未満に抑えることに成功しました。しかし、各国が独立したことから、国際的な支援が打ち切られました。そのため資源が不足し、スクリーニングやツェツェバエの管理が大幅に縮小しました。そしてアフリカ睡眠病の症例数が再び増加し始めたのです。
1990年代には、スーダンとコンゴ民主共和国において戦争と紛争が激化しました。両国では、1960年代以来、長年にわたり放置されていたアフリカ睡眠病の流行が始まり、大規模な住民の移動や貧困、暴力によって状況はさらに悪化しました。
その後、2000年代に入ると、国際社会による対策の強化が始まりました。世界保健機関(WHO)は、アフリカ睡眠病に対する治療の提供と管理を目的として、アベンティス(後のサノフィ)やバイエルなどの製薬会社との間に寄贈契約を結びました。また国際的な支援活動も再開されました。報告された症例数は数十年ぶりに1万例を下回り、2017年までには、WHOに報告された症例はわずか1,447例まで減少しました。
現在ではアフリカ睡眠病の制圧も視野に入っており、期待が高まっています。
悪夢から希望へ - アフリカ睡眠病治療の進化
アフリカ睡眠病と闘う医師たちが抱える葛藤を端的に示すものをひとつあげるとすれば、(アルソバールの商品名でも知られる)恐るべきヒ素系治療薬メラルソプロールを置いて他にないでしょう。
1940年代に発見されたメラルソプロールは、毒性が強く、20人に1人の患者の命を奪う劇薬でした。この治療薬が素肌に触れると重度の熱傷を生じ、時には手足の切断に至ることもあったのです。
医師たちは、ヒ素系治療薬を注射された患者の悲鳴が忘れられないといいます。患者は副作用のみならず、死に至る可能性もあるという恐怖から、アフリカ睡眠病の診断を受けた後でさえ、病院を訪れて治療を受けるのを避けるようになりました。
マドレーヌ・ムゼラ・カフティは2000年にメラルソプロールの投与を受けました。彼女は「私は恐怖を感じました。なぜなら、この治療薬で多くの人が亡くなったことを知っていたからです」と振り返っています。
マドレーヌ・ムゼラ・カフティは2000年にメラルソプロールの投与を受けました。彼女は「私は恐怖を感じました。なぜなら、この治療薬で多くの人が亡くなったことを知っていたからです」と振り返っています。
2000年代初頭、国境なき医師団(MSF)の医師たちは、現場での過酷な経験を通じて、深刻な医薬品不足の現実に直面しました。特に1990年代にアフリカで猛威を振るったアフリカ睡眠病への対応では、治療薬の強い毒性により、命を救うはずの治療が患者にとって命の危険を伴うものであるという、衝撃的な状況が明らかになりました。
このような現場の声を受け、MSFの医師たちは、2003年にDNDiの設立を呼びかけました。これは、製薬業界が経済的な理由から開発を避けてきた「顧みられない熱帯病」への対策を講じるための、画期的な一歩でした。
2003年にメラルソプロールの投与を受けたデュドネ・リキロ・タエタエは「火に触れたような感覚で、血管が黒くなりました」と語っています。
2003年にメラルソプロールの投与を受けたデュドネ・リキロ・タエタエは「火に触れたような感覚で、血管が黒くなりました」と語っています。
ジャン・オソンビンデリエ(蚊帳の傍に座る男性)は、2003年に妻をアフリカ睡眠病で亡くした後、2人の子供を自転車に乗せ、35km離れたコンゴ川沿いのイサンギにあるMSF診療所まで連れていきました。一日中眠り続けている我が子を目の当たりにし、彼は恐怖を覚えました。
ジャンがMSF診療所まで2人の子供を連れていくために使った自転車
ジャンがMSF診療所まで2人の子供を連れていくために使った自転車
子供たちは2人とも治療を受け回復しましたが、子供のひとりドミニクはいまでも神経症状に苦しんでおり、村のまわりを徘徊し、通学することもできずにいます。医師たちは、この症状について、メラルソプロールによる影響か、アフリカ睡眠病による長期的な影響、あるいはその双方によるものと考えています。
イサンギは最終的に、MSFとDNDiが実施した新規治療法「NECT」に関する臨床試験の重要な拠点となりました。NECTとは、エフロルニチンとニフルチモックスという2種類の医薬品を併用する治療法です。その後、ドミニクは同診療所に就職し、警備員として働くことになりました。NECTは2009年に承認され、最終的にはコンゴ民主共和国におけるメラルソプロールに代わる治療法となりました。医師たちは、NECTを「治療における第1の革命」と呼んでいます。
ただし、NECTは、カンデ医師をはじめとするコンゴ民主共和国の医師たちが望んでいた夢そのものではありませんでした。NECTは、アフリカ睡眠病の後期には極めて高い効果を発揮するものの、輸送や保管、投与が難しいのです。
NECTを収容した大きな扱いにくい箱をキンシャサからコンゴ民主共和国の人里離れた地に輸送する必要があります。そのためには、ボートから川岸を遡り、奥地まで長い距離を運ばなければならないことも多くあります。そして患者は10日間入院し、毎日点滴を受けなければならないのです。
特にアフリカ睡眠病の後期に関しては、簡単に服用することができる経口治療薬が必要とされていました。




臨床研究の最前線で
マシ・マニンバ
かつて患者を苦しめた病院が、今では希望の研究拠点に――。コンゴのイサンギだけでなく、他の遠隔地の病院もまた、アフリカ睡眠病の研究を支える重要な場所となっていきました。当時は想像もできなかったような、大きな変革でした。DNDiは、このような遠隔地において臨床試験を実施するため、各病院に検査機器や太陽光パネルを設置し、診療所を改修し、さらにはインターネット接続設備を設置しました。このような取り組みにより各病院は、臨床研究の国際基準を満たす施設にまで引き上げられたのです。
DNDiの拠点のひとつは、アフリカ睡眠病と深く関係しています。その拠点が置かれている町には、アフリカ睡眠病にちなんだ名前が付けられています。
バンドゥンドゥ地域の町マシ・マニンバ(Masi Manimba)は、現地のキコンゴ語で「人々が眠る場所」を意味しています。そのため現地の人々は、この名前がアフリカ睡眠病に由来していると信じています。なぜなら、起伏の激しい同地域の谷間にある畑で作業している人々や、養魚場の世話をしている人々はツェツェバエに刺されることがあるからです。
検査技師のレオン・カトゥンダは、マシ・マニンバ総合病院のDNDi病棟に勤務しています。同病院は、コンゴにおけるDNDi臨床試験の最重要拠点となっています。彼は16年間にわたってアフリカ睡眠病に関する業務に携わっています。そして彼が最初に勤めたのが、奥地の村を訪問してアフリカ睡眠病の検査を行う巡回診療チームでした。
現在、レオンは2人の患者をDNDi臨床試験に登録しています。2人は巡回診療チームによって試験を行う医療施設まで搬送され、病院の裏に設けられた広々としたDNDi専用病棟で治療を受けています。
ただし、2人の患者はまず「腰椎穿刺(ようついせんし)」という医療処置を受けなければなりません。これは、アフリカ睡眠病の診断において非常に重要な検査です。というのも、病気が「後期」に進行しているかどうかを判断するには、脳脊髄液を採取して、寄生虫が中枢神経に入り込んでいないかを調べる必要があるからです。レオンは、患者の不安を和らげるように準備を整えながら、こう語りました。「患者に痛みを伴う処置をするのは、やはり心苦しいです。でも、腰椎穿刺をしなければ正しい診断も治療もできないことを、きちんと説明しています。」
レオンが麻酔を行わずに、慣れた手つきで脊椎穿刺を患者の腰部に挿入すると、2人とも顔を歪めました。しかし気丈にも、2人とも痛みを感じているそぶりはほとんど見せませんでした。レオンは穿刺から脳脊髄液を採取しました。
採取したサンプルの分析は、臨床チームが行います。マシ・マニンバの臨床試験担当医師であるウィリー・クジエナ医師が、その作業を監督しています。サンプルの検査は顕微鏡下で行い、専用ソフトウェアと写真の撮影が可能なタブレットを補助として使用します。撮影した画像は、施設のインターネット接続を利用して送信することができます。
ウィリー医師は、フェキシニダゾールの開発に人生を捧げてきました。現在、彼はこの上ない幸せを感じているといいます。
ウィリー医師は、「患者の多くは、畑からあまりにも長く離れることを心配し、なかなか病院に行こうとはしないのです。フェキシニダゾールは、治療を大幅に改善するものになるでしょう。なぜなら、患者をそれぞれの保健区域内で治療することができ、しかも看護師に専用の訓練を行う必要もないからです」と語っています。
これこそがNECTに続き、医師たちが必要とした「第2の革命」だったのです。
ジョルジーヌ・カンベラ検査技師(DNDi検査室にて)
ジョルジーヌ・カンベラ検査技師(DNDi検査室にて)
ジョルジーヌ・カンベラ検査技師(DNDi検査室にて)
ジョルジーヌ・カンベラ検査技師(DNDi検査室にて)
レオン・カトゥンダ検査技師
レオン・カトゥンダ検査技師
レオン・カトゥンダ検査技師
レオン・カトゥンダ検査技師
サンプルの検査
サンプルの検査
サンプルの検査
サンプルの検査
ウィリー・クジエナ医師(マシ・マニンバの臨床試験担当医師)
ウィリー・クジエナ医師(マシ・マニンバの臨床試験担当医師(左))
バンドゥンドゥ
クワンゴ川沿いのバンドゥンドゥに位置するバンドゥンドゥ病院には、コンゴ民主共和国におけるDNDiのもうひとつの拠点があります。エレーヌ・マヘンジ医師は6年間にわたり、臨床試験担当医師としてDNDiの研究を管理してきました。彼女のチームは、これまでに約160人の患者を被験者として集めています。特に臨床試験について知られておらず、患者の収容能力も限られていた地域において、このような成果が成し遂げられたことに、彼女は誇りを感じています。
現在、彼女は、臨床試験に参加していなかったひとりの患者を診察しています。その患者は、ジョナサン・キディマという24歳の男性です。DNDi病棟には、臨床試験に参加していない患者も入院しています。ジョナサンのアフリカ睡眠病は後期に進行しているため、現時点の標準治療であるNECTを受けることになります。
夜になると、ジョナサンが夜間の点滴を受ける時間がやってきます。ジョナサンのベッドの横には、母親のフィロメーヌが座っています。彼女は息子を連れ、彼女たちが暮らす村から60 km以上離れたバンドゥンドゥ病院を訪れたのです。
ジョナサンを検査するエレーヌ医師
ジョナサンを検査するエレーヌ医師
ジョナサンは、彼女の子供のうち、初めてアフリカ睡眠病にかかった子供です。彼女は、「彼は7カ月も調子を崩していました。長い時間眠り、怒りだし、友達を殴ったこともあります。教室でも勉強しなくなり、私たち両親に対して敬意を示すこともなくなりました」と語りました。
さらに彼女は、「ここに滞在するのは簡単なことではありません。いま、村では私の子供たちが残って留守番をしているのです。」と語りました。
患者ひとりにNECT治療を行うエレーヌ医師
患者ひとりにNECT治療を行うエレーヌ医師
エレーヌ医師は離れた場所から治療を見守っていました。既に日は沈み、長い1日を終えた彼女は疲れていました。
チームが薬剤を投与している間、エレーヌ医師は「NECTはとても効果的な薬です。しかし昼も夜も投与するというのは本当に大変なことです。そして患者の家族にとっても大変なことなのです。フェキシニダゾールは、治療を大幅に改善するものとなるでしょう」と語りました。
ツェツェバエのマークが描かれたアフリカ睡眠病病棟の外に立つエレーヌ医師
アフリカ睡眠病病棟の外に立つエレーヌ医師
NECTの点滴では時間を管理する必要があります。一方、フェキシニダゾールは簡単に投与することができます。
NECTの点滴では時間を管理する必要があります。一方、フェキシニダゾールは簡単に投与することができます。
ママ・フィロメーヌ
ママ・フィロメーヌ
コンゴ民主共和国と中央アフリカ共和国の10施設においてDNDiの臨床試験を実施
740人を超える患者を被験者として募集

コンゴ民主共和国において、
DNDiが支援する巡回診療チームが
200万人以上を対象に
アフリカ睡眠病のスクリーニングを実施


農場を経営するジェネセ・リュアンティク・シンダニは、4人の子供(男の子2人と女の子2人)を持つ38歳の女性です。彼女はマシ・マニンバで暮らしています。穏やかな女性ですが、アフリカ睡眠病に苦しんでいた時期に子供たちを叩いていたことを話すときには表情が曇ります。
彼女が体調を崩したのは2011年のことでした。頭痛や背痛、発熱がありました。「それから子供を叩くようになりました。自分でも感情を抑えることができませんでした」と彼女は語りました。
とはいうものの、そのころの記憶はあいまいだといいます。彼女はマシ・マニンバ病院を訪れ、治療を受けました。「医師からは血液検査と脊髄穿刺を受けました。とても辛いものでした」。その後、彼女はフェキシニダゾールの臨床試験に登録しました。「いまでは回復しています」と彼女は語っています。
ウィリー医師は、「ジェネセは治療後に2人の子供を授かることができました。これはとても重要なことです。なぜなら、アフリカ睡眠病は妊娠可能な年齢の女性に不妊症や生殖不能症を引き起こす可能性があるからです」と語っています。
ウィリー医師とジェネセ
ウィリー医師とジェネセ

18歳のフランソワ・ンドナは、どこへ出かけるときも必ず聖書を持ち歩いています。
マシ・マニンバで暮らしている彼は、アフリカ睡眠病からの生還者です。2012年、彼が通う学校を巡回診療チームが訪れた際に検査を受け、陽性と診断されました。彼は当時を振り返り、「いつもいらいらしていました。他の子供たちと喧嘩をしたくなり、学校で喧嘩をしてしまいました。家ではいつも怒っていました」と語っています。
彼は中等学校に通っていました。「頭痛がして、腺が腫れていました」。そして喧嘩をしたとして、学校で罰を受けました。
2012年、彼は臨床試験に参加し、フェキシニダゾールによる治療を受けました。「それからは喧嘩を仕掛けることはなくなりました。アフリカ睡眠病にかかっていたときのような感情はなくなりました」。現在は、建築業に就くために勉強しています。

バガタに戻り、カンデ医師は、植民地時代の病院の屋外にある歩道を歩いていました。沈みつつあるコンゴの夕日の壮麗なオレンジの輝きが一面を照らしていました。細い丸木舟に立つ漁師たちが、病院の下を流れるクウィル川の夜に漕ぎだしていきました。穏やかな時の流れです。
アフリカ睡眠病病棟とDNDi施設に到着したカンデ医師は、ゆっくりとあたりの光景を見渡しました。
数十年前には混雑していた病棟も、いまでは整然とした臨床施設になっています。強い毒性を持つ治療薬の箱の代わりに、顕微鏡やコンピュータ、太陽光パネルが置かれています。かつては点滴に繋がれた患者と、それを囲む家族でひしめいていたベッドも、いまでは空になっています。
何気なく訪れる人にとっては、この病棟で起こった数え切れないほどの苦しみの物語を想像するのは難しいことでしょう。
しかし、カンデ医師にとっては違います。アフリカ睡眠病との闘いに人生を捧げた数多くのコンゴの医師たちと同じく、彼もまた過去1世紀にわたって繰り返されたアフリカ睡眠病の流行と鎮静のなかからひとつの教訓を学んできたのです。
アフリカ睡眠病は再び流行する可能性がある。
カンデ医師は語りました。「ここまで来るのに、つまり命を奪うような治療薬から、今のような飲みやすい錠剤にたどり着くまで、たった10年しかかかりませんでした。私たちが積み重ねてきたこの進歩を、絶対に無駄にしたくありません。フェキシニダゾールが、この恐ろしい病気の連鎖に終止符を打つ力になることを心から願っています。」
カンデ医師は、DNDiとMSFのロゴが描かれた頑丈なランドクルーザーに乗り込み、次の臨床施設に向け、漆黒の闇に包まれたコンゴの夜に車を走らせていきました。
アフリカ睡眠病に挑む医師の希望の飲み薬
フェキシニダゾールとアフリカ睡眠病に関する詳しい情報については、
こちらをクリックしてください。

撮影:グザヴィエ・ヴァヘド、ニール・ブランドヴォルド
#sleepingsickness

以下の皆様に感謝申し上げます。
資金支援者
ビル&メリンダ・ゲイツ財団(米国)、UK aid(英国)、オランダ外務省(DGIS)(オランダ)、ドイツ連邦教育研究省(BMBF)(KfW経由)(ドイツ)、フランス開発庁(AFD)(フランス)、ドイツ国際協力公社(GIZ) (ドイツ連邦共和国代表)(ドイツ)、フランス欧州・外務省(フランス)、国境なき医師団、ノルウェー開発協力局(Norad)(ノルウェー)、ジュネーブ州内部連帯局(スイス)、スペイン国際開発協力機構(AECID)(スペイン)、スイス開発協力庁(SDC)(スイス)、UBSオプティマス財団(スイス)、ブT(アフリカ睡眠病)キャンペーンに参加された他の民間財団と個人の方々。
パートナー
Accelera(イタリア)、Amatsi Aquitaine(旧Bertin Pharma)(フランス)、Aptuit(イタリア)、BaseCon A/S(デンマーク)、Biotrial(フランス)、Bruno Scherrer(フランス)、Cardiabase(フランス)、CBCO(コンゴ民主共和国)、 Centipharm(フランス)、Drugabilis(フランス)、アントワープ熱帯医学研究所(ベルギー)、フランス開発研究所(フランス)、国立生物医学研究所(コンゴ民主共和国)、HATプラットフォーム、国境なき医師団、コンゴ民主共和国・中央アフリカ共和国・ギニアの国家対策プログラム、Phinc(フランス)、サノフィ(フランス)、SGS(ベルギー)、SGS(フランス)、スイス熱帯・公衆衛生研究所(スイス)、WHO NTD部門(スイス)。
Drugs for Neglected Diseases initiative (DNDi) は、医療から取り残された顧みられない患者のために、安全で効果的、かつ入手し易い価格の治療薬・治療法を開発・提供する、国際的な非営利の研究開発組織です。
